忘失の記憶
---------------------------------------------------------------------------------
気がつくと、暗闇に沈む商店街に私は立っていた。辺りを見回すが、どの店もシャッターが閉まっていて、営業している店は一軒もなかった。私は腕時計を見た。まだ午後の九時を回ったところだ。今どきこんなに早く閉めてしまう店があるなんて思わなかった。私は白いサンダル履きの足で、狭い路地を奥へ奥へと進んでいった。そうしてもやはり開いている店はない。だが私は引き返そうとは思わなかった。道はどんどん狭くなっていき、私はその道を右に曲がり、左に曲がった。
すると突き当たりに煌々と明かりを点す一軒の店を見つけた。流華堂――りゅうかどう――。そう読むのだろう。私はその看板を見た瞬間に思い出した。ここが目的の店だ。誰だったか、ある人に教えてもらったのだ。ここに骨董品屋がある。そしてその店では探していたものを必ず見つけることができるのだ、と。私は探しものをしていた。だから迷いなくその店のドアを開け、ドアに付けられたベルをカランと鳴らしたのだ。
「いらっしゃいませ」
店に入ると柔らかな声に迎えられた。私の背後で再びカランと揺れて閉まるドア。私に向かって丁寧にお辞儀をした店の人は、まだ若い女性――いいえ、男性かもしれない美しい人――だった。私は店員の若さに驚いて、思わず店内を見回す。けれどその人の他には誰もいなかった。そして人を探して見回した店内は、私の求めていた品などは置いていなかった。それどころか、骨董品らしきものもない。あるのは二階に通じる螺旋階段と脇にはピアノが、そしてテーブルや椅子、カウンターとその奥には様々な色形のカップとソーサーが棚に飾られていた。骨董品店というより、喫茶店のようだった。
「あら……すみません。骨董品屋さんだと伺ったのですけれど……」
間違って来てしまったのだろうか。店を見た途端、ここが私の来るべき場所だと、そう直感したのに。戸惑う私に、一人しかいない店員がカウンター越しに微笑んだ。
「えぇ、骨董品も取り扱っておりますよ。どうぞ、こちらへ」
そういうと、奇妙な服を着た店員がカウンターを越えて、私の前を通り過ぎ、二階へと伸びる螺旋階段にと手を伸ばした。私は店員に促されるままに、螺旋階段の下へ足を進める。私に背を向けた店員の背には、美しく結ばれた太いリボンのようなものが巻かれている。私と同じくらいの背。店員は螺旋階段の下で、私に道を譲って自分は身を引いた。
「あの……貴方が店主?」
私は階段を上る前に、店員の前で立ち止まって尋ねた。年若い店員は、私の前でにこりと笑い、首を少しだけ右に傾げて答えた。
「はい、そうです」
いいえ、という言葉が返ってくると思っていたので、私は大いに慌てた。思わず目の前の青年をまじまじと見てしまう。まだ二十にもならないような若い人。男か女かさえ曖昧で、着ている服の柄は艶やかな蝶々。そういえば、腰に巻いているリボンだって、広がる様は蝶々のようだ。
「ごめんなさい。骨董品屋の店主なんて、お爺さんだとばかり思っていたから」
私が言うと、店主は形良い唇を引いてほんのり笑った。そう言われることには慣れている、という風に私には見えた。店主は私の背を軽く押して、螺旋階段を上るように促した。私は店主の指示通り、階段をぐるぐると回りながら二階へ上った。
二階は暗かった。店主は立ち止まる私の脇を抜けて、暗い部屋を難なく電気のスイッチがある場所まで歩いていった。店主が歩く度に、蝶のようなリボンが腰で揺れる。店主はようやくスイッチのある場所へ辿り着き、電気をつけた。私は瞬間、目を瞑る。突然の光に目がついていかなかったこともあるけれど、何よりこの部屋は光を乱反射した。私はしばらくしてから恐る恐る目を開けた。いつの間にか、店主が私の側に戻ってきている。
「これでも見る目はあるのですよ。本日はどういったものをお探しですか?」
狭い部屋の中は光で溢れていた。照明の光が、飾り棚や古いガラスに反射しているのだ。私はしばらくその美しい光景に見とれていた。それでも店主の言葉にぼんやりと反応して、何を探しにきたのか考えた。
「えぇ……探しているのは……あら、ごめんなさい。私、最近忘れっぽくて……」
考えても、思い出すことはできなかった。おかしな話だ。私は確かに何か目的があってこの店を探していたのに。
「いいえ、よく分かります。最近のことが思い出せないということは良くありますよね」
店主は優しくそう言ったけれど、私は焦った。思い出さなくてはならないことが、思い出せない。私は何を求めてこの店に来たのだろう。最近探していたものだろうか、それとも昔から探していたものだろうか。
「……あぁ、どうしても思い出せない。出直したほうが良いかしら……」
私は膝が折れそうになるのを必死で我慢した。店主には言えない。私は、自分がどこからきて、どうしてここを目指していたのか、それさえ分からないのだ。探ろうとすればするほど、自分の中が空っぽであることが身にしみる。私は一体誰なのか。何もかもが分からない。ただ私の中にあるのは、ここに来たことが間違いではなかったという、妙な確信だけだ。
助けを求めるような私の視線を受け止めて、店主はやんわりと微笑んだ。そして私の背をそっと支えて、クラシックな椅子に座るように促す。
「折角いらしてくださったのですから、ここにお座りになって下さい。お時間はありますよね?」
私はその言葉に少しだけ考えた。だが何かを求めてここにやってきた私には、それ以外の予定などこの先ありはしないのだ。
「えぇ……そうね。時間はあるわ」
私は小さく答えた。
「ではここでしばらくお待ち下さい。気分が落ち着くお茶をお淹れします」
店主は私に向かって優雅に腰を折ると、螺旋階段を下へと降りていった。私は店主の腰に巻かれたリボンがゆらりと揺れて消えていくのを見届けて、改めて二階の小さな部屋を見渡した。
私の座っている椅子は古そうな、艶のある木製の椅子。それは私の座っているものと、丸いテーブルを挟んで反対側にもひとつ。どうやら二つの椅子とテーブルでセットになっているようだ。そして壁側を視線で辿ると、柱時計がひとつ。脇に飾り棚。ガラスが光って、棚に飾ってあるものは良く見えない。部屋の真ん中には四角く長いテーブルがあって、その上には小物がたくさん並んでいる。中でも私の一番近くには、ガラスケースに飾られた装飾品が見える。キラキラとして、しかし決して華美ではない。私は椅子に座ってこの部屋を見ているだけで落ち着く自分に気づいた。ここはどこか懐かしい。
「どうぞ」
いつの間にか上がってきていた店主が、銀の盆に乗せたカップを丸テーブルの上に置く。私はそちらを見ることなく、店主に呼びかけた。
「ありがとう……。ねぇ、あれは何?」
私の手が指した先を見て、店主はそちらの方へ歩いていった。そして私が示した品を、ガラスケースごと持ってくる。
「こちらの品ですか?」
店主が私に差し出したガラスケースの中には、色とりどりのガラス球が繋がって輪になったものが数点飾られてあった。
「そう……ネックレスかしら」
そう尋ねると、店主は私の見ている前でガラスケースを開け、中のものを取り出して私に渡してくれた。ガラス球はひんやりとしていて、私の手に良く馴染んだ。
「いいえ。これはロザリオといいます。キリスト教をご存知ですか?」
その言葉の響きから何かの宗教であることはおぼろげに理解できたものの、知っているとは言い難い。どこかで聞いたことがあるような、という程度の記憶しかない。
「知っている……かもしれない。…………いいえ、やはり良く分からない。おかしいわね」
ここに来なくてはならないと感じていても、何のためにここへ来たのか分からない。そんなこと有り得ないではないか。私は確かに自分を忘れている。でもそれに対して何の恐怖も感じてはいないのだ。それがおかしい、と私は苦笑して見せる。しかし店主は私の苦笑に対して至極真面目に答えて微笑んだ。
「おかしくなどありませんよ。でもお客様、お客様はこれをお探しだったのですか?」
その問いかけに、私は改めて手に馴染んでいたネックレス――ロザリオというのだった――を観察した。きらきらと上品に輝くそれはとても美しかったし、私の手にも良く馴染んだけれど、私は手を伸ばしてそれを店主に返した。
「いいえ。これではないわ」
突き返された品を、店主は元通りガラスケースに収めた。そうすると益々その品が私のものではなく、そのケースに収められているべきものなのだという思いが強くなった。
「ではどの品でしょうか」
「ここにはないのかもしれない」
不安とともに私は俯いた。膝の上で組んだ手に目がいった。腕には店に入る前にも一度見た時計がある。長針も短針も指しているところは先程と同じ。よく見たら、文字盤を守るガラス蓋が割れている。時計は止まっていた。何故だか分からないけれど、壊れてしまっているようだ。私はどうして先程時計を見た時に、そのことに気づかなかったのだろうか。突然背筋が寒くなった。襲ってくるのは大きな不安だ。私は誰か、何を探してここに来たのか。ここに、私の探し物はあるのか。
「貴女のお探しの品はこの店にありますよ。どうぞ、歩いてお探しになってください」
妙にきっぱりと言い切る店主に促されて、私は戸惑いつつも立ち上がる。私が根拠のない確信でもってこの店に来たように、店主もまた、私がこの店で目的のものを見つけることを確信しているようだ。何の根拠もなく。
私は小さな部屋を、服を商品に引っ掛けないように気をつけながら歩いた。壁際には大きな柱時計。そしてアンティークだけれど開かない扉。小さく光るガラス細工。唯一ある出窓にはレースのカーテン。それさえも骨董品なのだろう。
「これは何? 小さな鳥ね」
私は螺旋階段の正面にある壁際の棚に置かれた鳥篭を指して言った。金色の篭の中には小さな鳥が止まり木に止まっている。店主は螺旋階段の前に立ったまま、私の問いに答えて言った。
「これはオートマタと呼ばれるものです。十八世紀から十九世紀のヨーロッパで時計技師達によって生み出された機械仕掛けの芸術品ですよ」
そして私に近づき、細い手を伸ばして鳥篭を持ち上げた。篭の脇にある小さなぜんまいを巻く音が、キリキリ響く。そしてぜんまいを押さえたまま、店主は再び鳥篭を置き、そっと手を離した。
「ほら、ぜんまいを巻くと鳥篭の中の鳥が歌いだすのです」
店主の手が離れるとぜんまいが動き、篭の中の鳥が首を左右にゆっくりと振りながら嘴を開けたり閉じたりした。そして鳥の動作に連動して、金属的な鳥のさえずりが聞こえ始める。
「綺麗な歌声……」
何の鳥、という声ではないけれど、とても音楽的だ。店主はうっとりする私の隣で、嬉しそうに微笑んだ。
「人形が文字を書くものも、オルゴールが流れて踊るようなものもありますよ」
鳥の声がやんだ。私は店主の言葉を小さく復唱した。オルゴール。何だったか、オルゴールとは。確か、小さいけれど美しく繊細な、金糸で縫われた箱だった。
「オルゴール……? 私、オルゴールを探しているのよ」
四本の足がついていて、宝石箱にもなるのだ。私はそれほど宝石を持っていなかったけれど、あの人の部屋の鍵を入れておこうと思った。いつかひとつの家で暮らすようになっても、使えない鍵をずっと入れておこうと思ったのだ。
「思い出されましたか?」
「えぇ、えぇ、思い出したわ。私、あの人が私に贈ってくれるはずだったオルゴールを探しているの」
私は必死に頷いた。他にも思い出せないことはたくさんあるけれど、そのことさえ思い出せばもう十分だ。あの人のこと、私に贈ってくれるはずだったオルゴール。そしてそのオルゴールが、ここにあるのだということだけが分かれば、他に何が必要だろうか。
「これですね? そのオルゴールは」
ある棚の引き出しから、店主はおもむろにひとつのオルゴールを取り出した。四つの足。金糸で縁取られた男女の向かい合う絵。下部にある装飾的なぜんまいを店主が巻き、オルゴールの蓋を私に向けて開いた。蓋の裏側には鏡が。私の顔が映っている。それはどこかぼやけて、時折私の額には赤い血が流れているように見えたけれど、それもどうでもいいことだった。
「あぁ……そうよ。貴方、この曲を知っている?」
私は店主から大切なオルゴールを受け取った。手に感じる温かさ。あの人の手と同じだ。
「えぇ。ある愛の詩という曲ですね」
「あぁ、あの人が大好きだった曲よ。私、これを探していたの。これでようやく、あの人のところへ逝けるわ」
思い出すべきことはすべて思い出したから、もうここにいる必要はなくなったのだ。私はしっかりとオルゴールを胸に抱えたまま、ゆっくり目を閉じた。オルゴールの柔らかな音が、私を包んで眠りに誘ってくれた。満たされた私が最後に聞いたのは、ありがとうございましたという静かな店主の声だった。